タリアから、あなたに贈る1冊

余りに、活字中毒過ぎて、読もうとした本が昔読んだことがあるということがしばしばあることから、備忘録をつけたいと思ったのがきっかけ。 ただ、ああ、この本にもう少し早く出会えていればと思ったことも多かったので、この時期のあなたにはおすすめしたい、過去の、未来の私に代わる誰かへの紹介も込めて。 そして、忙しく精神的につらかったときに、刺激の強い本を読めるタイミングがなく、その時の自分でも読める本が欲しかった。でも、そんな都合のいい情報にはなかなか出会えず。 そんな、少し前の私のような、いまにもあふれそうな水盆を

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「カブールの園」宮内悠介-嗜好の対象とは。

#純文学 #芥川賞作品候補 #現在 #アメリカ #日系3世の女性 #いじめ #苦悩 #母と娘 #リミックス #姉と弟 #父親のいない中で #生きるとは 

 

 

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10月3日の一冊

  •  本はさらっとよんで芸術性を味わいたい方
  •  とりあえず読み進めることは内容にかかわらず、苦ではない方
  •  物語のあらすじに期待しすぎない方

                                                               に贈りたいと思います。

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しばらく更新が途絶えてしまっていて、すみません。

家業が忙しくて、ばたばたしておりました。

 

本自体は読めていたものの、消化に困るものが多かったもので、、

本作は、贈る方がざっくりしてしまっています。これでは、届けたい方に届かないかもしれなので、他の純文学作品を読了後、追記したいと思います。

 

消化に大変困った作品より、

「カブールの園」宮内悠介 文藝春秋

カブールの園 (文春文庫)

カブールの園 (文春文庫)

 
カブールの園

カブールの園

 

 

あらすじ

シリコンバレーで起業した30代後半、日系3世の女性レイ。
80年代アメリカの小学校時代に周囲から受けた壮絶ないじめの後遺症を今も抱えながら、黒人の同僚とコンビで自社製品のプレゼンに駆り出される日々を送る。
精神安定剤を手放せないレイは、大仕事を前に休暇を命じられ、旅に出る。

日系1世の祖父母が戦中に入れられたマンザナー強制収容所、レイの母がひとり暮らすリトル・トーキョー。自らのルーツを歩いたレイは、目を背けていた本心・苦しみの源泉を知った。

複雑な形で差別の問題が日常にある3世の苦しみ、母親との関係。
日本とは、日本人とは、私とは何か――。

VRや音楽のミキシングアプリを対比させ、問題を鮮やかに巧みに
浮かび上がらせる。「マイノリティとしての私たちのこと」を問いかけた傑作。

第30回三島賞受賞。芥川賞候補。
「一読者として非常に感銘を受けた」平野啓一郎(選考委員)

様々な人種が暮らし、薬物の誘惑も幼児虐待も当たり前に転がるニューヨークで、女子プロレスラーとして働く姉の稼ぎで小学校時代を送った。やがて当たり前のように、一つの悲劇が起こる――日本人青年が、かつての生活を振り返る「半地下」も収録。

解説・鴻巣友季子

文春文庫『カブールの園』宮内悠介 | 文庫 - 文藝春秋BOOKSより

 

 

*純文学初心者の感想

読めない、、、難しい。なぜ、本作が読売新聞の読書紹介のよみうり堂([現代×文芸 名著60]生命を感じる<59><60> : 特集 : 本よみうり堂 : エンタメ・文化 : ニュース : 読売新聞オンライン)に紹介されてるのか、、、

どこを楽しめばいいのか、、、。リカイデキナイ。デキテナイ。

 

*そもそも

純文学ってなんですか?

純文学(じゅんぶんがく)は、大衆小説に対して「娯楽性」よりも「芸術性」に重きを置いている小説を総称する、日本文学における用語。

純文学 - Wikipediaより

 

この定義づけからすると、純文学を楽しむに当たっては、娯楽性よりも芸術性に目を向けるべきなのかもしれないということがわかります。

 

しかし、本書を読んでいると、場面転換がなされているが、それを指示する描写や表記がない。

読めない、と思った理由の多くはこの点にあります。

 

これを無理やり楽しんでみるなら、

主人公レイの過去と現在の思考の交差を混然とした表記にすることで示しているのではとも思えます。これを芸術性と呼ぶのであれば、確かに、表題作の中編「カブールの園」は、芸術性が認められるのかなとも思いました。

 

また、「カブールの園」のテーマは、母と娘の葛藤、日系3世の苦悩にあります。

個人的には、このテーマを十二分に掘り下げてほしかった。日本に住み、日本語を母国語とする日本人に触れる機会が多い、私のような読者からすれば、葛藤にしろ、苦悩にしろ、もう少し描写がほしかった。

 

後に、調べたところ、本書は芥川賞の候補作品にもなっており、本作品への書評でも、同様の指摘がなされており、驚きました。

選考委員の方が指摘するほどに、テーマとしてはとても興味深いものを扱っていると思います。

 

また、描写については、とても秀逸な点があり、

日系人ではなく、日本人の目になっている

この描写だけで、アメリカ社会で、成功を収めていかなければならない主人公レイが抱える、日系3世ではあるものの、アメリカ人であらねばならないことへの焦りを強く感じました。どう違うのかの情景は浮かばないけれど、この一文だけでハッとさせられるには十分。

もしかしたら、人種のサラダボウルといわれるアメリカ在住していたことのある、作者ならではの表現なのかなと思いました。

 

後半の中編「半地下」ででてくる、温度で青から、緑、そして茶色に変わるティラノサウルスがついた手袋は、この作品の最後が、最初からの予感通り、楽しいことにはならないことをしめしている気がしました。何気ない表現でしたが、とても印象に残り、ひっかかりを感じました。

 

 

いろいろ考えてみたけれど、

純文学は、さくっと読めないのではないか。

そのうえで、自分というフィルターを通して、何が印象、心証あるいは感性のようなものに何が残るかを見定めるべきなのではないのか。

 

とりあえずは、他の純文学作品も読み、自分なりの網を通して、作品を楽しんでみようと思います。